【日本という国】
日本のイメージはどんなものなのでしょう?
古くは日出づる国と魏志倭人伝には書かれています。またヨーロッパでは黄金の国ジパング、最近ではアジア侵略を行った国とかボロクソ言われています。(もっとも特定の3か国だけですが)全般的な国際評価では、安全で経済的にも豊かであり風光明媚なお国柄であるところに落ち着くでしょう。
四季、折々の花が咲き春夏秋冬、それぞれの季節が季節ごとの装いをまとう国、八百万の神々が路傍の石にも宿る国、皇紀2600余年一つの帝政の続く国、地政学的にも大陸とは海を隔てたことで世界に例を見ない独特の文化を発展させてきたと言えるでしょう。
よくガラパゴスなどと聞きますが全く進化論におけるガラパゴス諸島のように閉鎖的な空間で人々が暮らしてきたと言っていいでしょう。
外国で生まれて幼いうちに日本に来た(と言ってもバリバリの日本人ですけど)私が肌で感じた日本について書いていきますので「こんな感じ方もあるんだな。」とお読みいただけると幸いです。
私は米国で1950年代に生まれています。父親は商社勤めのサラリーマン。当時、日本の有力輸出品であった繊維を取り扱っておりました。
50年代の初頭に米国に渡った日本の商社マンは数がまだ少なかったように思います。
後から聞いた話ですが当時、日本人の住める地域はニューヨークの中でもマンハッタンの一部くらいしかなかったそうです。
敗戦後、数年しか経っていない時点で米国に渡ったのですから苦労をしたことと思います。
しかし父から米国で苦労をしたという話は聞いたことはありませんでした。
そして6歳の時に米国から日本に帰ってくることとなります。
それまでに一番、印象に残っているお話をすると生まれて初めて親父にぶっ飛ばされたお話でございます。
私には4つ歳の離れた妹がおります。
母親が妹を出産するという時に親父と私が病院に向かう車中のことでございます。
日本では考えられなかったことですが米国では当たり前に各家庭に車がございました。
それもいわゆる外車(米国のことですから当たり前ですが)無駄にでかい車です。
排気量も5リットルとか7リットルといった車で道端に十円玉ばらまいて走るような車です。(米国は石油が安いんで5円玉くらいと思いますが)
その車中、親父が「最近、飯を食わないみたいだがどうしたんだ?」と聞かれました。
私の返事は、「ニガーの作ったもんなんか食べられないよ。」と返事をしたところ、次の瞬間私の身体は運転席とは反対側の窓に頭を打ち付けて目の前には昼間だというのに満点の星が回転していたのでございます。(ニガーは黒人の蔑称)
親父は大学時代に徴兵され特攻帰りでしたので腕っぷしは強かったように思います。
剣道も6段、いざという時には腕に覚えがある人でした。(後年、私が中学生の時に挑みましたがボコボコにされました。)
齢も重ね、ものがわかってくると自分の言ったことがどんな意味を持つかがわかってくることがございます。
当時の私にはそんなことがわかりませんから自分がなぜ、怒られているのかがわかりません。だいぶ後になってわかりました。
当時、母の不在の前には一人の白人のメイドがおりました。しかし出産を控えた母が入院すると食事を作るためにもう一人の黒人のメイドが家に来ておりました。
もちろん、その人が何か悪いことをしたわけでもありませんし、いじわるをされたわけでもありませんが初めて見る肌の色の違う人に拒絶感が働いたのだと思います。
BLMの連中に聞かれたら殺されそうですが、実際当時はそう感じたのでしょう。
物心ついて考えるとひどいことを言ったもんだとも思いますが、4歳のガキがニガーの作ったものを、と言ってしまう米国に住む子供の発想がなぜ、そのようになってしまうのか米国の持つ文化的な問題点があるように思うのです。
1950年代から始まった米国の公民権運動が1968年キング牧師が暗殺され法律が制定されるまでの間、米国で吹き荒れたことは周知の事実です。
私の発言もこの時期に重なります私の家庭は母も父も日本人ですから純粋な日本家庭ですが考えてみると当時、家の中では一切、日本語は使われませんでした。全部、英語です。
(おかげで日本に帰った当初、結構いじめられました。当然、倍返ししましたが、笑)
親父は、ことによると英語をしゃべっておかないとまずいと考えたのかもしれません。
話がそれましたが米国内はそのような社会運動が活発に行われた時代背景があります。
ではその中における日本人の立場はどうだったのでしょうか?
ジャップ、リメンバー・パールハーバーなどの言葉を聞いたことがあろうかと思います。
これらは日本人に対し投げかけられる蔑視の言葉です。
有色人種に対する蔑視は基本的に現在ではなくなったかのように言われています。
しかし実態として今でもそのような気持ちを持つ人々がいないことはないのです。
ここは掘り下げるといろいろな意見が出ますのでこれ以上、言及しませんが当時はもっと激しい感情があったことをご理解ください。
故に日本人の住める区域は限られていましたし、戦後まだ間もない時期のニューヨークですから日本人に対する感情も複雑なものがあったに違いありません。
そんな米国で生活し、仕事をする親父のクソガキが「ニガーの」なんて言い出したのですから切れたのも当然でありました。
親父本人も陰ではジャップだとかイエローモンキーだの言われていることを知っていたでしょうから怒りは大きかったのでしょう。
今、思うと本当に私のガキの頃は、犬や猫以上に口をきく分、扱いの面倒なクソガキでした。身体で覚えないとすぐ忘れて同じことをやりますのでこの時ばかりは、生まれて初めて白昼、星を見ることになり強烈な印象をもって身体で教訓を得たのでございます。
今回は、米国における一つのエピソードでありますが日本を知る上で外国でのことを知るとわかることもあろうかと思い書いてみました。
無意識のうちに子供にすら差別的な感情を持たせてしまう、それを当たり前と考える思考そのものが根本的に日本人には理解ができないことです。
しかし世界にはいろいろな思考があることを知っておく必要があるのではないか、と思う次第です。